古いコメダ
「なごやSDGsスタンプラリー」の一環で、名古屋市見晴台考古資料館を訪ねました。



桜田景勝跡は、同じ南区にある年魚市(あゆち)潟景勝跡とともに、愛知県の地名の由来となったといわれる年魚市潟に関連する史跡です。付近の桜田貝塚からは、全国的にもめずらしい魚形土器が見つかっています(名古屋市博物館所蔵)。
万葉集巻三に、高市黒人の「桜田へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る」という歌があります。桜田とは、和名類聚抄に見える愛知郡作良(さくら)郷(のちの桜村、名鉄名古屋本線桜駅と地下鉄桜通線桜本町駅のあたり)の水田を、年魚市潟とは、南区の低地部から熱田までにあった干潟をそれぞれ指します。桜田のほうへ鶴が餌を求めて鳴きながら飛んでいく、それを見て、その向こう遠くの干潟はいましも干潮になったらしいと詠んだ、素朴にして遠大な歌です。
不思議なのは、最後にくり返される「鶴鳴き渡る」です。リズムが心地いいですが、読みとしては、鶴は一羽、鳴き声も一度であって、それが歌い手の心の中で反響したものかと思います。干潟が渡り鳥にとってなくてはならない餌場であるのは、いまある藤前干潟(港区)と変わりません。
もう一つ、考古資料館の展示には見入りました。弥生時代、窓付土器がどう使われていたのかを学芸員が想像して制作されたものです。

窓付土器は、弥生時代中期以降に尾張地域でのみ生産された土器です。清須市の「あいち朝日遺跡ミュージアム」でも多数見ることができますが、そちらでは、少なくとも展示室では、ここまで踏み込んだ考察は見ることができませんでした。
一つの真理を発見する喜びと、それぞれが想像を膨らませる楽しみと、そのどちらもがあっていいのだと気づかされます。堀の修繕は、サステナブルですね(SDGsでいうと、とくに関係するのは11「住み続けられるまちづくりを」と17「パートナーシップで目標を達成しよう」でしょうか)。
ともあれ、丘を降りてコメダへ着きました。

道すがら、見上げた空に浮かんだ雲がホイップクリームのようでした。それでジェリコにしました。
すごくきれいで、びっくりしました。物腰しかり、お店のひとは相当な経験を積んだ方に見えまた。おいしかったです。もこもこで、しっかり甘くて癒されました。地域の常連さんがつくる、なごやかな雰囲気がくつろげました。
ところで、朝、鶴里駅の改札を出たとき、ラックから見晴台の地図をもらってきました。それを、もう一度ここで広げました。

これを見れば誰でも、考古資料館まで道に迷うことはないはずです。以前来たとき、目印になる建物として桜台高校を頭に入れていた自分にとっても、地図があるのはより確実で安心できました。
それだけでなく、周辺地域の過不足ない案内になっているところにあたたかな心配りを感じました。そのなかにまた、白雲のコメダが「コメダ」としっかり書き込まれていたのがホッとしました。たとえるのなら、あのベルンド・ケストラーさんが国道でコメダの看板を見つけたときのようにです。
ミハルとダイも、もしかしたらまるどんも、もし言葉を話せたのなら、この地域でかつてあったこと、それからコメダで好きなメニューについて、喜んでたくさん教えてくれる気がしました。

太陽は西の空に差しかかり、窓辺のモクローが明るく、クリームソーダは眩しいほど輝き出しました。入ってきたときと同じ方へ、簡単なお礼を伝え、外へ出たら、なおよく見ておきたい思いに打ち勝てず、一服していきました。

このコメダは、コメダとしては全国でも類を見ない建築だと思います。このコメダを知ることができたのは、さんかく屋根の下に入って以来もっとも大きな収穫の一つです。
いつどうやってできたのか、自分はまだそれをお店のひとに尋ねることが無礼でないほど親しくないとわきまえていますが、想像すると、もともと学校か役場か何かとして使われていたのが、あとからレンガが運び込まれてコメダとして生まれ変わったのではないかと思います。駐車場奥の建物は、工場か倉庫に見えます。レンガの縁取りが、コメダらしさの演出ではないでしょうか。

ともあれ、振り返るといっそう明るい空が開けていました。地図で見た一里塚へ出て、次の目的地へ向かいました。


ミュートしたユーザーの投稿です。
投稿を表示素晴らしい写真の数々とお話でした
それにしても、こんなコメダは確かに見たことないですねぇ
でも、別の建物だったのをリノベしてるなら、いいことですね
外観も楽しめますね😄🎵
楽しいお出掛けになりましたね