中濃の明かり
関ヶ原から名古屋への帰途、今度は岐阜で一度降りてコメダへ食べにいきました。岐阜県下で最愛の領下店です。
到着したのは、日没後の残照のころでした。大切に手入れされ、この自分にとっても大切になった丸い植え込みが、薄明のなかに愛らしさを留めていました。
ミールは、暮れ方はさすがに冷えてグラタンにしました。ドリンクは、少年サッカーの刺激が止まず、思わずレモンスカッシュを——
西濃で食べたビーフカレーと対をなすかのように、メニューブックでいちばん輝いていたのがこの白いグラタンです。金に縁取られたブーツグラスは、思えば桜の季節以来でした。
いかにも、おいしかったです。こんがりチーズはよく噛めば旨味が溢れ、ぷりぷりのエビとしめじならではほ食感が熱々のベシャメルソースと踊れば、適量のよく香る海苔は、濃尾平野から遠く伊勢湾へと憧憬を駆り立てました。それとともに、砂瓤の何とたっぷりであることか——それは子どものころ夏休みに楽しんだ、よく冷えたみかんジュースさながらでした。それのみか、シロップの強い甘味とレモン本来の瑞々しい酸味が、争うのでなく、ただただおいしくグラスから口へと、溶け合って流れ込み——ひと言にして、いかにコメダのモーニングが魅力的だとて、コメダの夕ご飯に敵うものはありません。
この日も、大満足の領下店でした。食べ終え、余韻を味わってからもう落ち着いたレジへ向かい、とりどりのグラスとリボンに後ろ髪を引かれつつ、この夏のアイスコーヒーを買い求め、笑顔で挨拶を交わして、今度こそ本当の帰途、いつもの名鉄細畑駅まで、大切な荷物を抱えて夜道を歩きました。
細畑から領下へ来るとき、いつも立ち寄る場所があります。それは中山道鵜沼宿と加納宿のあいだ、細畑の一里塚からほど近い両天橋です。
そのいわれは、地域の史家らしきひとの名を添えた看板で学びました。いわく、
「徳川家康が関ヶ原合戦に向かう途中、この橋を渡って勝利したとされる。戦勝縁起の故事に習い、歴代尾張藩主のお国入りの折には、わざわざ遠廻りして、渡られたという由緒ある橋です。そしてこの道は、尾張様(60万石)御成道と呼ばれ、笠松の円城寺へと続いている。」
この夕べ、境川の彼方に、養老山地の上空にかかる淡い長い雲が見えました。それは蛇が牙を剥いているようでもあり、でなければ、糸に紡がれる前の綿のようでした。
もう一つ、領下で心に残ったことがあります。いつも地域のお客さんがくつろいでいる出窓の特等席に座れたのです。
風除室のオルガンや、同じ出窓の古時計とミシン以上に、そこに飾られたさまざな手芸の素材と道具と、古風な水色のデスクライトが、自分には、いまも生きている感じを与えました。その明るさで、夜道も怖くありませんでした。
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投稿を表示イシガミさんこんばんは٩( 'ω' )و
日没の静かな夕暮れの始まり、店内の落ち着きある食事とてもいいですね(^ ^)
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