どえらいコメダ
若き家康に会いに、大高を訪ねました。


着いたらまずコメダにしました。ハードな一日になるのを見越して、コーヒーはアイスをたっぷり——モーニングは、この前きれいに広げられなかったのが情けなく、またあんことジャムにしました。
いやはや、またも理想からほど遠い出来でした。勢いをつけすぎると潰れたり散らばったりするし、躊躇しすぎてはほぐれない——なかなか、あんこの扱いというのは難しいものです。コメダのプロを尊敬せずにいません。それにしても、たっぷりアイスはひと口めから好きなだけ吸えるのがうれしいですね。普通のアイスだと、後半にコーヒーが足りなくなるくらいさみしいことはないから、どうしても、自分はちびちび飲みがちです。
そういえば、昨年コメダの統合報告書を読んで甘利社長のお気に入りメニューがたっぷりアイスだと知りました。まさかそうころころ変わらないだろうから、この夏も、いえ、きっとずっとそうなのでしょう。
激務であればこそ余裕をつくる、その大人の姿勢を見習いたいものです。

大好きなモーニングで元気がついたら、いざ大高城を目指しました。
桶狭間の戦いがあったのは、5月のことです。それより気候は厳しいものの、街全体へ視野を広げるのなら、現代の快適さは比較になりません。
家康のというより、その旗下の兵士の苦労を思って歩きました。








この戦いで、当時今川の支配下にあった家康の役割は、大高城の至近距離に丸根砦と鷲津砦という二つの砦を築いて圧迫していた信長に対抗し、食糧を運び込むことでした。それを成し遂げた翌朝、早くも家康は丸根砦を落としています。その夕方にはおけはざま山に布陣していた大将の義元が信長本隊に討たれたため、家康は、敗戦の将であり、決死の兵糧入れも徒労であったと見ることはできるでしょう。
しかし、この戦いで家康が見せた将としての姿が、その後40年以上に及ぶ幾多の戦いについてきた旗下の将士に強く訴えたことは、想像に難くありません。城跡は何も語らずとも、その場所に立つと、どこからかその声が聞こえてくるようでした。
それに背中を押されるようにして、城下へ下り、歴史ある街並みを歩きました。




奇しくも、最後に渡った大高川は、故郷の日進から流れ来る天白川にこの近くで合流しているのでした。上流域でのみ生活していた子どものころは描けませんでしたが、いまになって、一つの川とはるかな歴史の流れが、ようやくやわらいできた日差しのなかで、そう遠くないもののように感じられました。
そこを折り返しにして、朝と同じコメダへ引き返しました。
たくさん歩いて、水分補給に気をつけたとはいえ、さすがに身体は火照っていました。

大高城下では、桶狭間のおけわんこもかくやというほど、あちこちでみどりっちを見ました(念のため、桶狭間も緑区です)。それで、コメダでは、かえってソフトクリームだけが食べたくなりました。

おいしかったです。冷えました。コーヒーと一緒でなければだめだと決めつけていた、みずからの贅沢さを恥じました。
食べ終えてから、少し目を閉じて長かった一日を振り返りました。そうすると、きっとまた大高へ来たいし、有松から桶狭間へもまた行きたい、愛知・名古屋の歴史がわかってきたいまなら地域のひとのガイドを受けてみたい、そのために、今日はもうまっすぐ帰って、しっかり休もうと思えました。
イオンを出て駅前へ戻る途中、名残を惜しむように、なおいくつかの風景に足を止めました。やがて来たバスと地下鉄では、おたがい一日何をしていたのであれ、同じように疲れているに違いないまわりのひとのことを考えて、うとうとすることなく微笑を保っていました。



