西濃の風
モーニングでときどき話す夫婦に強く薦められ、関ヶ原を訪ねました。
名古屋のコメダの開店を待たず快速に乗り込んだため、朝は大垣で一度下車しそこから歩いて行けるコメダへ——慣れ親しんだ接客と内装にホッとし、せっかくの旅先でもあり、一品追加をしました。
自分にとってはサラダの定番、コールスローです。
手のひらにちょうどよく収まる器(コメダのヨーグルトのほか、中華定食の杏仁豆腐でもなじみがあるのは当地だけでしょうか)と小ぶりなフォークに、大袈裟でなく肩の力が抜けました。
そのおいしさはといえば、なかんずくキャベツの千切りの細さが店舗ごとで違うのも面白いところですが、この酸味は、やはりリンゴではなくレモンのようでした。といって、きついことはありません。むしろまろやかさがあり、それでいてしつこさはなく、彩りと合わせて心を爽やかに、歯応えは身体を元気にしてくれました。
何といっても、コメダのコールスローがいちばんです。
満足したところで地図を広げ、関ヶ原に至る前の大垣と垂井について、多少の理解を得ました。やがて近づいた時刻に合わせ、いよいよ、コメダのない関ヶ原へ。
はじめてその地を踏んだ関ケ原は、またとない好天でした。よく乾いた西風に肌が洗われるようでした。
陸橋で線路を渡ると、建築の並びが見えてきました。
この方角で伊吹山を隠す峰の直下が関ケ原町役場で、その隣がホール、ギャラリー、視聴覚室、図書館や彫刻のある芝生広場を擁するふれあいセンター、道路を挟んでその反対側、三成が陣を敷いた笹尾山のほうに見えるのがこの日の目的地、岐阜関ケ原古戦場記念館です。
丁寧に案内されて、グラウンド・ビジョンからシアター、展示室、戦国体験コーナーから最上階の展望室まで、時間の許す限りゆっくりと見て回りました。遅いランチは併設のレストランで飛騨牛カレーに舌鼓を打ち、明るい芝生と山並みの眺めに、いつまでも飽かず目を休めました。
食後のコーヒーと記念品、後学の資料を一冊買い求めたあとは、隣の歴史民俗学習館へ入りました。林業、家庭の暮らしと防災、農業、そして先史時代から現代にいたるひとの歩みについて、多くの学びがありました。
ここまで来て、本当によかったです。
閉館時刻の近づいたころ、引き返して来たときと同じ受付から、お礼を言って外へ出ました。折りしも下校後に家を飛び出してきたところか、センターの芝生でサッカーに余念がない少年たちと挨拶を交わし、その彼らを見守る少女らを脅かすまいと、柔和な無関心を装ったまま、緩やかな下り坂の帰途に就きました。
陸橋の手前で、史跡の一つに立ち寄りました。
そこは、東首塚といいます。もと家康の命で垂井の領主が戦死者を埋葬した地であり、いまでは、両軍の死者を供養する場所となっています。
関ヶ原の住民は、戦ははなはだ迷惑だったにもかかわらず(ことに、その九月半ばが稲の収穫直前だったことは堪えたでしょう)、累々たる屍を分け隔てなく丁重に葬ったといいます。
そのようなひとの心を、自分は考えました。生きることに懸命で、思い通りにはいかないこと、不運な衰滅があることを知り抜いている。その一方で、また芽吹く恵みがあり、だから等しくすべてを大切にする——道理に暗いがゆえにどちらに味方したらいいかわからない、というような蒙昧ではそれは決してないと、自分には思えました。
そこに聳える根本から幹が別れたスダジイの古木は、夏に生え替わる前の雄鹿の角のように、力強く枝葉を広げていました。その陰で、ぎらつく夕日から守られ、粗末なベンチに腰を降ろして、しばらく心を空にしました。
もう一度強い風が吹き、その風に背中を押されるようにして立ち上がり、歩き出しました。通りまで出ると、元気に坂を下ってくる若き父と少年、また駐車場の広報車を囲んだ消防団員の声が聞こえ、そのさだめし穏やかな眼差しを受け止めながら、胸を張り、見つめる先は少し遠くに、次なる岐阜のコメダへ向かいました。
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投稿を表示イシガミさん、
いつも純文学の様な達者な
文章をワクワクしながら
読ませて頂いてます🌺
今日もとてもお勉強に
なりました。有難うございます🌟
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