喫茶と文化
地域の文化小劇場で、劇場パートナー劇団の公演がありました。その体験を、帰り道のコメダで振り返っていきました。

今年の演目は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」でした。子どものころ、親が買ってきてくれたマンガで読んだのをよく覚えています。その時代は楽しみが少なく、ほかに「どんぐりと山猫」、「注文の多い料理店」、「よだかの星」、「オツベルと象」それから「セロ弾きのゴーシュ」といった作品を、朗読のカセットテープでくり返し聞きました。父のときも母のときもありましたが、何度かは、親が隣にいて、一緒に考えたり教えたりしてくれました。
舞台で、親友のカムパネルラが「だけどおっかさんは許してくれるだろうか……本当に正しいことをするなら、きっとそれがおっかさんの心に適ったことなんだ」と言い、病気の母を持つジョバンニが「だけどカムパネルラのおっかさんは、どこも悪くないはずだのに」と独白したシーンから、ずんずん引き込まれました。

物語中、一つのハイライトはさそり座を通るシーンだったと思います。
避けられない死に臨み、過去のおこないを顧み、翻って自己犠牲への情熱を語るサソリの言葉がどう評価されるのか、自分には、取り立てていうべきことはありません。そのいっぽうで、水難で母を亡くした二人の少女とともにカムパネルラの姿が見えなくなったとき、それは彼の死を暗示し、その死は、彼が、ジョバンニにとっては好ましくなかった、祭りの夜に溺れかけたクラスの女の子を助けようとすぐさま川に飛び込んだために訪れたものだったことが、最後のシーンで語られます。
旅の経験を通して、おそらくカムパネルラは、情熱より言葉よりも先に、本当に大切なもののためには命を投げ出すことをすでに心でわかっていたのでしょう。だから身体がそう動いたのではないでしょうか。犠牲になったかどうかは、あとから、それも周りから見ていわれることで、彼にとっては、ただ本当に正しいことをしただけのように、自分には思えます。
それは、同じように旅をしたジョバンニが、ついに抱いた希望でもありました。

カムパネルラの死を、その父とジョバンニが受け入れたとき、はや台詞は絶え、あとはただ、舞台の向こう側の闇に無数の星が輝いていました。
コーヒーが冷めない限り、そこまで振り返れるほどゆっくりすることが許される、喫茶店という文化がこの街に根づいていることを、自分は、深く喜びました。
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投稿を表示偶然にも、先日図書館で風の又三郎を借りて読んだところです。賢治もさることながらイシガミさんの文章力にも引き込まれます✨
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投稿を表示素敵な時間を過ごされたみたいですね。
子供の頃に読んだ作品を、読み返したくなりました❗
コメダで、コーヒーの薫り漂う空間での読書は、贅沢な過ごし方だと思います🎵